
国内外を問わず、牙を剥く自然の猛威を前にして、我々は立ち尽くすほかない瞬間が増えている。豪雨、酷暑、暴風、あるいは大地そのものの震え。かつて人間が叡智を結集して築き上げてきた都市や社会システムが、まるで砂上の楼閣であったかのように脆く崩れ去る光景を目撃するたび、我々は痛烈な無力感に襲われる。
また、どれほどジムに通い詰めて肉体を鍛え上げようと、どれほど栄養と休養に気を配り健康を保とうと、暴走する地球のエネルギーの前では、この皮膚一枚に包まれた肉体など木の葉のように心もとない。自らの肉体が本質的に「有限であり、壊れやすい器」に過ぎないという事実は、現代の快適なシェルターの中にいると容易に忘れ去られてしまう。
だが、自然の圧倒的な力に呑まれるのであれば、人はまだある種の諦念――大いなる摂理への畏怖とともに受け入れる余地があるのかもしれない。真に始末に負えず、暗澹たる思いにさせられるのは、その猛威の源が「同じ人間」であるときだ。戦争、争い、搾取、果てしない分断。なぜ我々は、同じ脆弱さを分かち合う同胞でありながら、傷つけ合わずにいられないのか。愚行極まりないと知りながら、自らを滅ぼす炎に自ら油を注ぎ続けるのか。
それは、生存のために太古の昔から遺伝子に深く刻み込まれてきた「欲」や「恐怖心」という原始的な生存プログラムの暴走なのだろうか。あるいは、人間という存在そのものが自然の一部である以上、我々が起こす争いや狂気すらも、神が仕組んだ「もう一つの自然の猛威」と捉えるべきなのだろうか。もしそうであるならば、我々は自らの知性に呪われていると言わざるを得ない。
さらには現在、AIの爆発的な進化と普及によって、仮想と現実の世界の境界線が急速に溶け出し、その均衡は大きく揺らいでいる。身体性を置き去りにした知性だけが光速で駆け巡り、人間は自らが作り出したデジタルな影を現実と錯覚し始めた。だが、いくら電脳空間に神のごとき全能感を抱いたところで、現実の足元を激流が洗えば、我々はたちまち無力の徒と化す。文明の進歩がもたらした気候変動や生態系の危機は、肉体を忘れ、肥大化した人間の傲慢に対する、地球からの痛烈な警鐘そのものに思えてならない。
しかし、絶望に沈み、破滅のシナリオに身を委ねるにはまだ早い。
外部の脅威や自らの愚かさに直面したときこそ、我々は人間本来が持つ力を信じ直す必要がある。人間の遺伝子の深奥に眠っているのは、恐怖や闘争の本能だけではないはずだ。過酷な氷河期や飢餓、幾多の天変地異を乗り越えてきた祖先たちが、DNAに脈々と受け継いできたもの――それは他者を慈しみ、助け合い、理不尽な不条理から生き直そうとする「プラスの特性」である。他者の痛みに共鳴する想像力と、荒野に花を植えるような不屈の意思こそが、我々が人間たる所以ではなかったか。
終末時計の針が、取り返しのつかない破滅の刻限へとまた一歩進んでしまう前に、我々は今一度、精神の帯を締め直さなければならない。
いま問われているのは、我々が自らの「知性」に喰い尽くされるのか、それとも「心」によって知性を御し、調和の道を見出すのかという、根源的な覚悟なのかもしれない。