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  • 2026年、再び「核の火」を灯す前に――文明としての選択を問う

    福島第一原発の事故から15年という節目を迎えた。2026年の今、社会には再び原発再稼働を促す足音が響き始めている。かつての記憶が薄れゆく中で、私たちは今一度、根源的な問いを立てなければならない。デジタル社会が抱く飽くなき欲望、その巨大なエネルギーを支えるのは、果たしてこの「核の火」でなければならないのだろうか。

    効率と安全、そして次世代への倫理。我々が歩む道が、真に持続可能な光へと続いているのか。その検証なしに、時計の針を安易に進めることは許されない。

    「安全コスト」という言葉の欺瞞

    昨今の議論で頻出する「安全コスト」という言葉がある。この無機質な経済用語の裏側に、我々は何を読み解くべきか。安価な電力がもたらす目先の豊かさと、万が一の事態が瞬時に奪い去る平凡な日常。その二つを天秤にかけたとき、果たしてそれらは等価だと言えるのだろうか。

    経済の論理が優先される社会において、数字に置き換えにくい「命の重み」はしばしば等閑視される。しかし、一度失われた土地やコミュニティは、いかなる経済的補填によっても再生することはない。コストという言葉でリスクを管理したつもりになる傲慢さを、今こそ問い直すべきだ。

    「出口なきトンネル」と未来への負債

    原発の問題を語る上で避けて通れないのが、「核のごみ」の最終処分場問題だ。解決の糸口が見えぬまま、処理できない廃棄物だけが増え続ける現状は、まさに出口なきトンネルを歩んでいるに等しい。

    我々が現在享受している便利さの代償を、まだ見ぬ未来の世代に押し付け、負債を積み上げ続ける。これを「誠実な態度」と呼ぶことはできない。誰が、どこで、いつまでその重荷を背負うべきなのか。その答えを出さぬままに再稼働の議論を進めることは、未来に対する明白な背信行為である。

    加速するAI社会とエネルギーの依存

    2026年、AI技術の飛躍的進歩は社会のあり方を一変させた。しかし、その知性を維持するために膨大な電力が消費されている事実は皮肉である。この増大する需要を賄うために「原発回帰」が不可避であるという論調が強まっているが、技術の進歩が新たな依存を生むこの循環の先に、真の自立はあるのだろうか。

    自然エネルギーとの共生を「実現不可能な理想論」として切り捨てるのは容易だ。しかし、困難な道から目を背け、安易な選択に流れることこそ、我々の知性の敗北を意味するのではないか。

    都市の光と地方の沈黙

    都会の華やかな灯りを支えているのは、常に遠く離れた地の決断である。交付金という名の経済的恩恵と、隣り合わせの不安。この構造的な格差を是認したまま、消費地の人々が豊かさを謳歌し続ける歪な関係。エネルギー供給の在り方は、そのまま現代社会が抱える都市と地方の不均衡を映し出している。

    エネルギーを選択することは、どのような文明を次世代に残すかという意思表示に他ならない。一時の合理性に溺れず、千年先の地層に思いを馳せる想像力が今、求められている。問い続けることを止めた瞬間、過ちは繰り返される。我々は今、沈黙を破り、この不都合な真実を語り継いでいかなければならない。

  • インターネットからAIへ:個のエンパワーメントが到達する地平


    かつて、個人や小さな組織が社会に影響を与えるための最大の障壁は「距離」と「資本」であった。情報を広く届けるには多額の広告費が必要であり、ニッチな声がマスメディアの壁を越えることは稀だった。しかし、インターネットはこの構造を根底から覆した。情報の「流通」を民主化し、誰もが世界とつながる武器を授けたのである。

    それから四半世紀。私たちは今、インターネットによる「接続」の時代の次にくる、より本質的で劇的な変化の渦中にいる。それが「AIによる実行力の民主化」である。

    「作る力」の解放がもたらすパラダイムシフト

    インターネットがもたらした恩恵が「届ける力の解放」だとすれば、AIがもたらすのは「作る力の解放」である。

    例えば、Webサイトの制作を考えてみてほしい。かつてはデザイン、コーディング、サーバー構築、ライティングといった各工程に専門的な技能が必要であり、それらを統合するにはチームを組むか、膨大な学習時間を投資するしかなかった。しかし、AIはこれらの「専門技能の壁」を融解させつつある。

    AIは、コードを書き、画像を生成し、構成案を練る。これまで外部に委託するか、諦めるしかなかった高度な技術的タスクが、個人の手元に「実行可能な選択肢」として戻ってきたのだ。これは、単なる効率化ではない。アイデアを形にするコストが限りなくゼロに近づくことで、個人の生産性が組織のそれに匹敵、あるいは凌駕する「生産性の爆発」が起きようとしている。

    価値の源泉は「作業」から「文脈」へ

    しかし、誰もが「作る力」を手にしたとき、市場に溢れるのは「平均的な完成度を持つ成果物」である。AIが代替可能な、既存情報の要約や定型的な作業の価値は相対的に低下していく。ここで、私たちは新たな問いに直面する。

    「AIには出力できない価値とは何か」

    その答えは、人間特有の「手触り感のある感性」や「独自の問い」、そして「文脈を作る力」にある。小説の執筆において、プロットの構築をAIが補助できたとしても、そこに通底する切実な動機や、言葉の裏に潜む沈黙までをAIが完全に代替することはない。読者が心を動かされるのは、作品の背後にある「血の通った意志」や、作り手が紡いできた独自の物語(文脈)に対してである。

    AI時代において、個人に求められるのは「有能な作業者」であることではなく、AIというレバレッジを使いこなす「卓越したディレクター」としての視座なのだ。

    巨大資本へのカウンターとしての「偏愛」

    AIは、小さな組織にとっての強力な生存戦略にもなる。巨大な資本を持つ組織は、どうしても最大公約数的な「正解」を求めがちだ。一方で、個人や小さなチームは、AIを「相棒」として活用することで、採算が合わなかったような「極めてパーソナルなこだわり」や「ニッチな偏愛」を、ビジネスやサービスとして具現化できるようになる。

    巨大資本には不可能なスピード感。そして、一見非合理に見えるほどの独自性。AIという翼を得た「個」は、かつてない軽やかさで、自らのビジョンを形にしていける。

    道具に魂を吹き込むのは自分自身

    「個」の時代は、ネットによる「接続」から始まり、AIによる「具現化」によってその完成へと向かっている。

    私たちは今、歴史上もっとも「個」が力を持つ時代を生きている。だが、どれほど強力なAIであっても、それ自体が目的を持つことはない。何を問い、何を形にし、誰に届けるのか。その中心にある「ビジョン」を定義するのは、常に人間である。

    AIを、単なる効率化のツールとしてではなく、自分の可能性を拡張するための「翼」として定義し直すこと。その姿勢こそが、これからの数年、そしてその先の未来を切り拓く鍵になるだろう。


  • 思考は、物理的な存在を超えて駆動する。

    ソル・ルウィット(1928-2007)。20世紀後半の美術史にその名を刻む、ミニマリズムとコンセプチュアル・アートの先駆者である。「アイデアは、芸術を作る機械になる」という言葉を残した彼は、芸術の本質を作家本人の「手仕事」から解放し、純粋な「概念」へと昇華させた。

    この度、上京した機会に、その徹底した哲学を体現する大規模な個展(東京都現代美術館)に足を運んだ。

    静謐な空間に身を置くと、まずその圧倒的なスケールに視覚を奪われる。壁一面に広がる鮮やかな色彩のうねりと、理路整然と、しかし執拗なまでに増殖を繰り返す白い構造体。

    実際にその場に立ち、作品群に囲まれることで見えてきたのは、現代の私たちが受け取るべき「意志」の在り方だった。

    ソル・ルウィットが提示した「意志」という名の設計図

    清澄白河の広大な展示室。一歩足を踏み入れると、そこには計算され尽くした秩序と、それとは裏腹な爆発的なエネルギーが共存していた。

    壁面を埋め尽くすカラフルなウォール・ドローイング、そして空間を侵食するように並ぶ白い「オープン・ストラクチャー(開かれた構造)」。その美しさに圧倒されながらも、ふと気づかされる。ソル・ルウィットという表現者が他のアーティストと画然と一線を画しているのは、その「所在」の置き方にあるのだと。

    「つくること」を手放した芸術家

    ルウィットの特異さは、完成された作品そのものよりも、その背後にある「アイデア」と「プロセス」に絶対的な重きを置いた点にある。

    彼は自身の作品を、自らの手で完成させることに固執しなかった。彼が残したのは、緻密に構成された「指示書(インストラクション)」である。その指示に従い、他者の手が線を引くことで、初めて作品はこの世に顕現する。

    つまり、彼にとっての芸術とは「作業」ではなく「設計」であり、アーティストの価値は「筆を動かす技術」ではなく「概念を構築する力」に集約されていた。

    現代の私たちは、すでに彼の庭にいる

    ルウィットがこの世界を去って久しい。しかし、彼の肉体はここになくとも、彼の「思考の装置」は今もなお、会場で鮮烈に駆動し続けている。

    そして皮肉にも、私たちは今、AI(人工知能)という新たな存在を前にして、ルウィットが数十年前に到達していた境地に立たされている。

    かつてルウィットが職人たちに託した「指示書」は、今や私たちがAIに打ち込む「プロンプト」そのものだ。生成されるイメージの質が飛躍的に向上し、実行プロセスの価値が相対的に下がった今、最後に残るものは何か。

    核心にあるのは「プロンプト、発想、意志」

    会場で作品を眺めながら確信したのは、どんなに優れた実行システムがあっても、最初の一歩となる「発想」と、それを形にしようとする「意志」がなければ、何も生まれないという真理だ。

    ルウィットの作品群が放つ強烈な存在感。それは、彼が込めた「意志」が、時代や肉体の壁を軽々と飛び越えて、現代の私たちの感性に直接プラグを差し込んでくるからに他ならない。

    大切なのは、何をどう描くかという技術を超えた先にある、根源的な問い。
    「何を望み、どのようなルールで世界を切り取るか」

    ソル・ルウィットが遺したオープンな構造体は、AI時代の真っ只中を生きる私たちに、クリエイティビティの真髄を静かに、しかし情熱的に問いかけている。