
21世紀、私たちは「知の極致」としての人工知能(AI)を手に入れた。膨大なデータという名の記憶を食らい、瞬時に未来をシミュレーションするその力は、かつて人類が神にのみ許されると信じていた「全知」の領域へ確実に足を踏み入れている。しかし、どれほど演算が高度化し、論理が世界を覆い尽くそうとも、私たちは今なお厳冬の社に列を成し、沈黙する石や木に向かって手を合わせる。
この一見すると不可解な「知性と迷信の共存」は、単なる懐古趣味や習慣の残滓ではない。それは、最適解だけでは埋められない人間の「実存的な渇き」を証明する、きわめて現代的な現象である。
「確率」と「運命」の埋めがたい断絶
AIの本質は確率論である。過去の統計に基づき、最も「ありそうな」未来を予測する。そこに意志や情緒が介在する余地はない。しかし、私たち個人が生きる時間は、統計上の平均値ではない。
木札に書かれた「吉」や「凶」に一喜一憂する心が求めているのは、計算可能な期待値ではなく、自分という個別の物語に対する「予兆」である。どれほどアルゴリズムが「成功の確率」を弾き出したとしても、私たちの内奥には「それは本当に私のための答えなのか」という拭い去れない疑念が潜んでいる。論理的な予測が緻密になればなるほど、人はその網目からこぼれ落ちる「運」や「縁」といった、数値化できない運命の感触を、逆説的に強く欲してしまう。
癒しとしての「神性の沈黙」
最先端のチップは、私たちの思考を代替し、生活を効率化の極致へと導く。だが、AIが与えてくれるのは常に「解答」であり、「救済」ではない。AIが提示する最適解は、冷徹な鏡のように現状を映し出すが、生命の本源的な不安を包み込む優しさを持たない。
一方で、古びた社の中に坐する神は、常に沈黙している。そこには論理的な指示も、効率的なアドバイスも存在しない。しかし、その沈黙こそが、過剰な情報と計算に疲れ果てた現代人の精神を癒やしてくれることを我々はどこかで理解している。何も語らぬ神性に対して手を合わせる時、人は自らの不安を預け、意味の束縛から解放される。知性が極限まで高度化した時代だからこそ、私たちは「答えを出さないもの」との対話に、魂の安息を見出すのである。
「身体的な祈り」という最後の抵抗
今日、私たちは物理的な距離を無効化し、メタバースのような仮想空間に没入して生きることが可能になった。思考も感覚もデジタル化され、身体そのものが「不要な重荷」になりつつある。そのような時代に、厳冬の寒風の中を歩き、冷たい鈴の緒を握り、柏手を打つという「身体的な祈り」が持つ意味は重い。
凍える指先の感覚や、木々のざわめきといった物理的な刺激を伴う参拝は、データでは還元しきれない「私という存在の重み」を再確認する儀式である。デジタルの万能感が支配する世界において、あえて不自由な肉体を運び、物理的な空間で祈る。それは、人間がただのデータセットや処理速度の競争に還元されることへの、本能的な抵抗ではないだろうか。お守りを握りしめるその手の温もりの中にこそ、数値化できない人間性の最後の砦が築かれている。
畏怖:AIと神を繋ぐもの
「演算」と「祈り」。一見して対極にあるこの二つを繋ぐのは、「人知を超えたもの」に対する「畏怖(Awe)」の念である。
かつて原始の森で自然の荒ぶる力を神と呼んだように、今、私たちはブラックボックス化したAIという巨大な知性に対しても、ある種の畏れを抱き始めている。制御不能なほど巨大なシステムへの敬畏と、悠久の時を刻んできた伝統への祈り。それらは根底において、自分という存在を超える大きな流れに身を委ねたいという、人間の根源的な欲求に根ざしている。
高度な技術を手にした今、私たちは、より新しく効率的な最適解を求める知性と古代人のように祈りを捧げる精神という矛盾を同時に抱え込んでいる。しかし、そういった葛藤こそが、人間を人間たらしめているのかもしれない。AIが導き出す「正しい答え」だけを享受するのではなく、祈りという「問い」を抱え続ける。その揺らぎの中にこそ、未来という不確実を生きていくための、真の知恵が宿っているのかもしれない。

